滋賀県多賀町周辺の廃村(その3)−向之倉・甲頭倉
2009年5月4日



 ゴールデンウィーク6日目。思い立って以前から興味を惹かれていた滋賀県多賀町周辺の廃村へ行ってみることにした。霊仙山の滋賀県側、多賀町(一部彦根市)には比較的狭い範囲に廃村が集中しているのである。そして、どの村も非常に山深い。

 (その3)として取り上げるのは向之倉(むかいのくら)及び甲頭倉(こうずくら)である。この二集落は芹谷川の谷をはさんで向かい合っている。そして、屏風や後谷などと違って、山の斜面そのままに集落が存在する。


 芹谷川を遡るという程も無く走り、左岸へ渡る。向之倉へはここを上っていく。くどういようだが、往時にはこのような車道は無く、全て徒歩道である。










 いいかげん上ったな、と思う頃に頭上を見上げると廃屋に見下ろされていた(廃屋は木々の間に見えている)。










 そして向之倉で最初に出迎えてくれたのがこの建屋である。まだ倉庫か何かに使われているのだろうか、痛みも無くしっかりしている。




 向之倉を上り切ると、車が2、3台駐車できるスペースがあった。そしてそこから徒歩で一段上ったところにも平場があり、そこにあったのが左写真の蔵(?)である。一見しっかりして見えるが、中は崩壊していた。










 向之倉で何とか原形を留めていた建屋はこの二つくらいである。あとは崩壊して見る影も無い状態か、或は半壊状態の廃屋である。

 向之倉は、山の斜面に家を建てるのに必要な最小限の面積だけを切り開いてできているように見える。そして、その戸数は恐らく多くても十数戸。二十戸は、無い。現在では全く手が入っておらず、荒れるがままとなっている印象は五僧と同じである。




























上左: 堰を切ったように崩れ始めている家屋。こうなるともう止らない
上右:崩れて間も無いのだろう、建材が未だ土に還っていない
下左:木材は土に還り、残るのは石やガラスのみだ。これは恐らくカマドの跡であろう。車道が無い当時、煉瓦などは背負子で担いで上ったのだろうか?
下右:門だけが寂しげに残っている

 向之倉の集落跡から少しだけ山に入ると氏神(?)であった井戸神社(多賀神社の末社だそうだ)が残っている。石造りであった鳥居は倒れているが、滋賀県指定自然記念物である桂の巨木がある。樹高39m、推定樹齢400年だそうだ。向之倉の歴史を、ずっと見続けてきたのかもしれない。





 向之倉の山を下り、ほぼ対岸にある甲頭倉へ向かう。


 川沿いの県道から離れ、上りかかったところでゲートが出現した。「不審者や物取りが横行」しているため、このような処置になったのだという(と張り紙に書いてある)。
 多賀の廃村で一ヶ所ゲートがあるところがあるのは知っていたが、さてここだったかと思っても後の祭。どうしたものかと考えあぐねていると(戻るしかないだろ?)、ゲートの向うの畑で野良仕事をしていた御爺さんが鍵を開けてくれた(実は開けてくれるのを待っていた(笑))。
 とりあえずこちらは人畜無害そうな中年のオッサンだし、バイクだから物は持ち出せないし、しかも白昼堂々だし。地図を見てどんなところかと思って来た、と伝えるとすんなり開けてくれた。



 ゲートのおかげであろう、荒された家屋は無いように見えた。また、無人ではあるがそれなりに手入れはされているようで、最も崩れかかっているも家屋でこれである。
 実は縁側に置かれている薪がとても気になった(カミキリムシが多くよってくるのである←虫マニア)のだが、時間が無い(苦笑)。さらっと通り過ぎる。








 甲頭倉は平場が無く、家屋は左写真のように斜面に必要な分だけの平場を開いて建てられている。











 集落の一番奥には寺が残っていた。





 帰り際、ゲートの所でまだ野良仕事を続けていた御爺さんと暫く話をした。
 話の中で、「この道(ゲートのついている道)はずっと後にできたもんだ」、「本当の(昔の)道はこの先、お墓のあるところだ。子供の頃はそこから上っていた」と聞いた。
 そのお墓が、これである。ここの、恐らく奥の方から上っていったのだろうが、今となっては道があるのかどうかすら怪しい。
 それにしても甲頭倉の標高は概ね400m、この位置からだと大人でも1時間以上かかるだろう。往時はそれで済んでいたと言えばそれまでだが…。



 甲頭倉に限ったことではないが、多賀の多くの集落は田畑のための平地を持たない。即ち、自給自足すらできなかったのであって、必要な食料はこのような山道を運んで上がるより他は無かったのである。


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