餘部鉄橋訪問記(その2)−鎧駅編

2008年10月12日


 餘部駅の東隣にある鎧(よろい)駅。その歴史は山陰本線開通当初からと餘部駅よりも古く、事実、餘部の住人は両駅の間にあるトンネルを徒歩で抜け、鎧駅を利用していた時期もあったそうである。
 現在の鎧駅は、鄙びたいい雰囲気を出しているのであるが。

 餘部駅の東隣が鎧(よろい)駅。
 結果論であるが、観光地化してしまった餘部駅よりもよほど鄙びた感じが好ましい。

 鎧駅は餘部駅と同様、山の中腹(というより崖の中腹)に駅があり、そこから鎧の漁港を見下ろした風景が冒頭の写真である。

 これは、漁港から駅への斜面を登っていくインクライン(産業用に建設された鋼索鉄道。旅客用はケーブルカーと呼ばれる)の遺構である。下の小屋が恐らく漁港側の駅と思われる。

 駅と漁港の高低差は40mである。かつて鯖漁で賑わっていた頃、獲れた鯖を背負子で担いで蟻の行列のように連なって駅まで運んでたそうであるが、昭和28年にこのインクラインができてからはそういう風景も見られなくなったそうである。










 
 こちらの写真は鎧駅側の遺構。ウインチでもあったのであろう。今は荒れた畑のようになっている。




 これは鎧の集落へ入っていく道、山陰本線の下を潜ったところである。

 軽自動車くらいしか通れそうに無いが、国道から鎧の集落へ入っていくのはこの道一本だけである。

 







 鎧駅ができたのは明治の末年のようなので、その時点で既に集落があったことになる。が、国道から鎧集落へ入っていく県道166号ができたのは昭和(!)42年。
 ということは、それまでは文字通り陸の孤島だったのか?
 それまでの外部との接触手段は舟と鉄道だけ?
 いや、鉄道ができる前は舟だけ?
 そもそも、何時、誰がここへやって来たのか?

 疑問は尽きないので2009年に調査のための再訪計画が進行中である(笑)。


鎧駅について詳しくはここ


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