廃村茨川と木地師の里君ヶ畑
2009年5月1日
廃村、茨川を訪問した。その山深さには驚くばかりであり、率直に言ってよく住んでいたなと思う。そして木地師の里君ヶ畑。こちらも過疎化が進み、住人は数えるばかりになっていた。 |
滋賀と三重を隔てる山々。具体的には霊仙山から御池岳、そして藤原岳に至る一帯の滋賀県側麓には廃村(廃集落)が点在するが、その中でも(現)東近江市の茨川(いばらがわ)は、山間僻地という点で群を抜いた存在である(と思う)。
そこへ至る林道がダートという事も興味を惹き、前々から探索を考えていたのだが、今回、石榑峠と合わせて訪問してみる事にした。
茨川への林道は、石榑峠のあるR421から分岐している。
左写真はR421を永源寺町方面から走ってきたところである。右がR421本線、左へ下って行く道が茨川へ向かう林道である。
永源寺町方面から来ると、神崎川を越えてから石榑峠までの間に、他に北側へ分岐してる道は無いので間違う事は無いと思う。ちなみに、右写真の標識はかなり古くからあるらしい。
R421から分岐していく坂を下ると林道はすぐに川を渡り、そして折戸隧道が現れる。
隧道に銘板はなかったが、橋の方にはあった。隧道上の扁額が左書き(昭和30年頃まで標題として書かれる横書きは原則として右書き)であるし、コンクリート造りなので妙に新しいなとは思ったが、橋の銘板は昭和54年11月完成となっている。離村時期が昭和40年頃なので、これではつじつまが合わない。
実はこの林道、離村後(か若しくはそれに近い時期)にできたものらしいのである。林道は茶屋川沿いに茨川へ至っているのであるが、林業等のために後年造ったものであるようなのだ。そして元々茨川へ通じる車道(馬車、牛車等も含む)は存在せず、あるのは西へは君ヶ畑、東へは藤原町への峠越えの山道のみだったようだ。ちなみに、この山道についてはリンクのマピオンの地図には記載されておらず、国土地理院の2万5千分の1においては点線(登山道かその類)で表記されている。 |
林道自体は川沿いに走るフラットダートである。所々ガレていたような記憶もあるが、総じて左写真のような路面状態であり、走りやすい。
が、この日が平日だったせいか、山間僻地にしては車、とりもなおさず工事用車両の往来が多かった。
一度なぞはブラインドコーナーを回ったところで大型タンクローリーと出くわし、肝を冷やした。単車だから脇をすり抜けて事無きを得たが、車であったならば正面衝突だろう。油断は禁物である。
R421の分岐から10kmで林道は終点、川の対岸が茨川の集落跡である。写真では分かりにくいが、KDXが停まっている所と川面は50cmくらいの段差があり、単車での渡河は不可能。元々、集落へ行くためにつけた道ではない(?)ので、これは致し方の無いところ。ただ川は浅いので、徒歩での渡河は可能である。
なお、写真右手に川を堰き止めるように置かれているコンクリート塊と、その続きの対岸に更に奥へ行く道が写っているが、これらは集落と何の関係も無い。これらはいずれも近年、治山(?)の為につくられた道(程無く行止まり)と、そのために架けた橋の橋脚の跡である。webを検索するとそのような写真が出てくる。
茨川に人が住み着くようになったのが何時頃であるかについては定かではないが、16世紀半ば、室町時代には既に記録に現れるらしい。最盛期(18世紀頃か)には数十軒の家があったという。村人は北勢と永源寺を結ぶ途上にある茶屋、山の仕事(炭焼、樵)、そして銀鉱山で生計を立てていたようだ。
しかし山での暮らしは厳しく、大東亜戦争後から離村が始まり、ついに昭和40年(東京オリンピックの翌年、日本が高度成長期へ突っ走り始める頃である)には廃村となった。茨川には最後まで電灯がつくことが無かったと云う。
離村の頃に茨川に残っていたのは数軒の民家と分校(万所小学校茨川分校)である。
それから半世紀近い時間が過ぎ、現在でも残っているのは2軒。そのうちの1軒が左写真である。
比較的しっかりと残っている様に見えるが、それもそのはず、離村後に某大学のワンゲル部が前進基地として利用しているようであり、故に手入れが行き届いているのであろう。
そしてこちらは惜しい事をした。
現地では新しく見えた(玄関の扉を見よ、アルミである)ので、てっきり離村後の建物と思ったのである。故に全景は撮影せず、表札だけに留めたのだが、実は分校の建物であったらしい。今では八幡工業高校山岳部の前進基地として使われている。
ちなみに、離村時の分校生徒は数名。
茨川には当然であるが、平地はほぼ無い。家々はこのように山の斜面にへばりつくようにしてあったのだろう。残った石垣が往時を偲ばせる。
実のところ、茨川を訪問するには下調べが足りなかったと反省している。当日は写真で示した猫の額ほどの一帯をぐるっと見て回り、他には何も無いことを確認して帰ったのであるが、本稿を書くために再度調べ直していると、付近に墓があったり、もう少し奥には神社、そしてその更に奥にも民家跡があるようなのである。
こういう場合、「再訪する口実ができた」と思うようにしているのではあるが…。
林道をR421まで戻り、石榑峠へ行ったものの撤退を余儀無くされたのは既報の通り。
仕方が無いので万所まで戻り、県道34号を少しだけ北上、蛭谷から君ヶ畑を経由して御池林道で霜ケ原へ抜け、R306で帰投することにする。
地図上、R306へ抜けるには御池林道よりも県道34号を走った方が速そうなのであるが、君ヶ畑(過疎地域である)へ行ってみたかったことと、林道を走りたかったのでそのコースを選択したのである。
君ヶ畑は木地師の里と云われている。
木地師とは、ロクロを使って盆や椀などの木工品を作る職人のことであり、その技は8世紀頃にここ君ヶ畑から全国に広まったのである(隣の集落の蛭谷が祖との説もあり)。
余談であるが、君ヶ畑は「きみがはた」と読む。一方、御池林道でR306へ抜けた先には大君ヶ畑があり、こちらは「おおきみがはた」ではなく「おじがはた」と読む。
集落の真ん中には「木地師発祥地 君ヶ畑ミニ展示館」があった。勿論、無料(笑)。中には木地師が作った木工品が展示してある。
ちなみに、展示館右側にある赤い消防ホース格納箱の上のポスターは藤原紀香である。初めてまじまじと顔を見たような気もするが、美しいw。全く、馬鹿な男もいたものである。
君ヶ畑へ来た第一目的は、趣のある廃屋、である。
この家は、「ろくろ」と書いた看板(?)がかかっている。一瞬「屋号か?」と思ったが、ろくろ作業をする家、という程度の意味であろう。下の赤い盆に書かれた「椋」の文字の方は屋号かもしれないが、その下の「↑」は意味不明である。
これは何だか分からない。中を覗いたところ、作業小屋のようであったが。ひょっとしたら製材をしていたのかもしれない。
萱葺きの家も残っている。
が、雨戸に苔が生えているところ、萱が一部破れているところを見ると、長らく放置されているのかもしれない。
君ヶ畑を抜け、期待していた御池林道であったが、全く当てが外れた。全線舗装済である。距離が長いので、ダート時代はさぞ走り甲斐があったであろうと想像するのみである。峠を越えると、所々視界が開けて琵琶湖が遠望できる。が、もう一度走ろうとは思わない。
石榑峠でのUターン、君ヶ畑への寄り道などがあったので、帰りはすっかり遅くなってしまった。
山を下りて大垣まで戻ったところで日没寸前である。
大垣では、恐竜が帰りを心配して首を長くして待っていてくれていた。
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