懐かしい街


2009年5月10日
 

 昔住んでいた街を訪ねた。もはや風景は変わっており、懐かしい人は誰もいない。

 JR片町線の四條畷駅
 と言っても当然分からないだろうから説明しておくが、片町線は大阪中心部の片町駅から京都の木津を結ぶ路線である。現在では片町駅は廃止、京橋がその起点になっているようだが、私の頭の中ではあくまでも片町起点である。
 そして四条畷駅は大阪府大東市北部に位置する駅である(てっきり四條畷市にあるものだとばかり思っていた。今回調べてみて改めて知った事であり、驚きである)。
 かつて、大阪万博の頃までは片町から四條畷までが電化(この区間は旧国鉄で関西初の電化区間)であり、ここから奥(北)はディーゼル、そして時々蒸気機関車が走っていた。
 左写真は駅東、多少の商店が並んでいるが、相変わらず狭い。ちなみに駅西には、かつては改札が無かった。その昔(戦後間もなくの頃まで?)、この辺りは駅から東へ向かう四條畷神社への参道周りだけが開けていたのであろう、西側は田んぼか沼地ばかりだったと思われる。

 と、いきなり四条畷駅周辺の話から始めても読者諸賢は面食らうばかりだろうが、実は昭和40年代の前半、大阪万博の頃までこの辺りに住んでいたのである。先日縁あって再訪する機会を得、往時を偲びながら周辺を散策してきたので、今回はそれを紹介したいと思っている。筆者の郷愁にしばしお付き合い願いたい。


 四条畷駅の西には民家がほとんど無かったと考えられる証拠に、東西を結ぶ踏切が無い事がある。いや、駅北にあることはあるのだが、それは狭い踏切であり、かつての街道の跡と云った類のもので無いことは確かである。
 そして駅南には踏切が無く、右写真の如く狭いアンダーパスが設けられているだけである。当時は、このアンダーパスを通って行き来をしていた。
 ちなみに駅南は行止まりであり、車で通り抜けることはできない。




 アンダーパスをくぐって右手にはパチンコ屋の駐車場があった。かつてここは映画館であり、ガメラやゴジラの映画は全てここで見たのである。










 元映画館前からはひたすら西へ真っ直ぐ。
 当時住んでいた家までは狭い路地を歩いていったような記憶があるが、往時茫々、この道がそうであるかについては定かではない。









 憶えのある場所へ出てきた。右の小さな橋を渡ったところが寝屋川市(今立っているのは大東市)、当時住んでいた町内である。が、先に左へ行ってみる。










 左に折れたらすぐ用水につきあたるので、それに沿って南へ(写真は振り返って撮っている)。
 40年近く前は本当に土手だったものが、コンクリートできれいに固められて、かつ落ちないようにフェンスで囲まれている。
 ここがまだ土手だった頃、向こう側へ飛び越そうとして失敗、全身泥まみれになって母親に大目玉を食らった事は内緒であるw







 用水に沿って歩くと、大東市立の小学校を過ぎて幼稚園に至る。ここが私の通っていた幼稚園である。当時の先生は…、いるはずも無い(笑)。当時二十歳くらいとしても、それから既に幾星霜、今では孫のいる年であろう。









 踵を返してさっきの分岐(3枚前の写真)まで戻る。右の小さい橋を渡ると、そこからは寝屋川市河北東町、田舎から出てきた両親が最初に住んだ町である。
 家の横を流れる川(用水?)はご覧の通り、当時は土手の上に土嚢が築いてあったのだが、今ではフェンスに変わっている。この川では亀が沢山採れた。家のタライで常に数匹以上飼っていたが、よく母親が文句を言わなかったなぁ。また、土手にはカボチャやスイカが時々自生していた。そしてこの川に落ちて大目玉を貰うのも、お約束である(笑)。




 家はまだ残っていた。
 当時よくあった「2コ1」という形式である。建物としては一つだが、中は完全に区切られていて玄関も別である。道路に面した窓は台所であり、その下の壁に野球のボールをぶつけて遊んではよく叱られたものだ。
 手前にも家はあったのだが、今は空地になっている。








 家の裏へ回る。奥の方に灰色の囲いがあるのがわかるだろうか?父が作った物置小屋である。まだ使われているとは思わなかった。ただ、当時は裏に家が無かったのでそちらから出入ができ、単車の車庫としても使っていた。乗っていたのはホンダのベンリィ、それからカワサキのビジネスモデルだったか。カワサキの方はタンクに旗のマークが付いていたのを憶えている。



 家の裏手、当時は田んぼだった。いつの間にか埋め立てられ、家とそれから病院ができている。病院の向うが外環状線(R170)である。










 ついでなので町内を一回りしてみる。

 パン屋は店を閉めてしまったようだ。ここの店番のお婆さんにはよくガムを貰った。尤も、干からびて売り物にならなくなったガムばかりだったが。








 よくお世話になった病院は、記憶の通りの場所にあった。だが、名前が違うような気がする…?

 この他、同級生の家も建物自体は残っていたのだが、空家だったり表札が変わっていたり。終の棲家というよりは、我家も含めて通りすがりの異邦人が住む町だったようだ。



 小学校へは、緑の叔父さん叔母さんに引率されてライオン製菓東側の路地を歩いていく。右側の用水は、当時はもっと汚いドブだった。
 河北東町は寝屋川市の南の端、デベソの様に飛び出した位置にある。当時、付近に小学校と言えば隣の大東市にしかなく、そちらへの越境入学が認められていた。が、それも私が入学する前年まで。近隣に寝屋川市立の小学校ができたのでそちらへ入学せよとお上のお達しがあったのだが、それは子供の足で小一時間程かかる距離であった。
 今までは10分足らずで通学できたので、当然親と市の間でもめる。しかも通学には当時から交通量の多い外環状を横切る必要があるのである。
 スッタモンダの挙句、市の指示する小学校への入学拒否、住民による寺子屋の開校、という渦に小さい私は巻き込まれ(笑)、結局登校(入学)は4月も半ばを過ぎてから(だったと思う)となった。
 そしてその落し所が、「緑の叔父さん叔母さんの引率」である。


 ライオン製菓の裏を通った後、外環状を渡るのだがどうも記憶が定かではない。あの歩道橋を渡ったのかそうでないのか?










 
 外環状を渡った後は、畦道やら土手の上やらを通って学校へ行った記憶があるのだが今では家が並んでいるのでこの道で正しいのかどうか分からない。


 ようやく、何となく憶えのある道に出てきた。そうそう、こんな畦道を通って学校へ通ったのだった。当時は舗装もしていなかったに違いない。
 先に云ってしまうと、小学校への道すがら、往時の面影を残していたのはここだけだった。しかも、田んぼには【鴨までいる】し(笑)。









 学校へ行く途中の土手、というのはたぶんこれだと思う。寝屋川の一本東の用水である。コンクリートで固めて、柵をして、間近まで家が建ってしまっている。



 母校に到着。ここには2年生の冬まで通っていた。
 今見ると、校庭が記憶よりも狭い。校舎が増築されたのか、はたまたこちらが大きくなったのか。


 さて、駅の方へ戻ってみますか。








 家から駅へ向かう途中にある、よく遊んだ公園。往時はもっと木が茂っていたが、更地みたいになっている。手前には赤い屋根の電話ボックスがあって、その中へ入ってよく遊んだ(笑)。











 駅西にある病院。頭を怪我して血みどろになった私を母親が抱きかかえて飛び込んだものの、時間外という理由で診察拒否したのはここである。ただし、今いるのが当時と同じ医者かどうかは分からない。



 ダイエー裏の自転車屋。その右隣(画面では左)には本屋があって時々通ったのだが、今はご覧の通り更地になっている。











 そして駅西にあったダイエーはダイソーになっていた(シャレで云っているのではないw)。
 尤も、ダイエーで買い物をすることは少なかったが、中にはおもちゃ屋などがあったので、子供にとっては楽しい場所であった。



 商店街は駅の北側すぐ、東西の通りである。ただ、通りが2本あった。当時から2本だったのか、もしそうだとすれば主に買い物をしていたのはどちら側だったのか、まるで憶えていない。
 ここのところは母親に聞いてみないとわからない。










 商店街を東へ抜けると、楠正行(正成の子)ゆかりの四條畷神社に続く参道である。
 この参道途中に模型屋があった記憶なのだが、どうやら廃業してしまったようだ。











 四條畷神社は飯盛山の山腹にあるので、境内へはこのように急階段を上っていく。当時、初詣や節目節目のお宮参りは全てここへ通っていたのである。





 本殿。
 今でも実家に帰ると本殿前で撮った写真が何枚か残っている。妹や弟はごく小さいか、または赤ん坊である。勿論私も紅顔の美少年であった(笑)。

 ここの杉の木の絵を描いて入選、上級生に混じって賞状を貰ったのだが、それがどの杉だったかは分からなくなっていた。






四條畷神社から見た大阪市街、遠くのビルはただ霞んで見えるだけである。今日確かめた私の記憶みたいに。



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