滋賀県余呉町の廃村〜丹生ダムに沈む村
2009年5月2日



 滋賀県余呉町を南北に流れる高時川流域には、現在も残る菅並と中河内の間にもかつては幾つかの集落があった。山奥での生活の厳しさ、或はダム建設のためという理由は異なるにせよ、現在ではいずれも廃村となり等しくダムの湖底に沈む運命にあるのである。

 滋賀県余呉町を南北に流れる高時川流域には、現在も残る菅並と中河内の間にもかつては幾つかの集落があった。
 それら集落の内、より奥地の針川、尾羽梨(おばなし)、奥川並(おくこうなみ)は昭和45年前後(またしても大阪万博の年!)にその生活環境の厳しさから離村した。一方、半明(はんみょう)、鷲見(わしみ)、田戸、小原(おはら)の各集落は30年近く前に事業着手された丹生(にう)ダム建設に伴っての移転であり、その時期は平成に入ってからである。
 ダム建設が進んでいけばこれら集落は水没の運命にあるのだが、今現在ダム計画は迷走、本体は未だ着工されておらず、このため水没するはずの村の生活の跡は今もその地に残っている。
 今後ダム計画が進み、徳山村と同様湖底に沈んでしまっては当然乍ら見ることも適わないので、ゴールデンウィークの1日を利用して行ってみることにした。

 余呉へは岐阜からR303を西進。R21で関ヶ原を経由して行っても時間は変わらないのだが、R303の方が交通量が少なくかつ信号もほとんど無いので気持ちが良い、などと言っていられるのは全線バイパス化が完了したからである。昔のR303ならばとても通る気になどはなれない。

 さて、愛機KDXは航続距離が短いので、山へ入る前には燃料満載が必須である。R303沿い、木之本町杉野で給油しようと思ったのだが、昨夏立ち寄ったスタンドがその後店をたたんでいた。泣く泣くR303をそのまま下り、予定の変針地点杉本を通過して川合の交差点へ。実はここにスタンドがあることは前々から知っていて、杉野で給油できなかった場合の予備として頭には入っていたのである。備えあれば憂い無し(笑)
(しかしR303の八草峠越えのルートは、30キロ近く(?)の間スタンドが無い。沿線住民はどうしているのだろう?)

 川合から杉本まで引き返し、そこから県道284へオンコース。余呉へ行くのにわざわざ杉本まで引き返したのは、杉本隧道を通りたかったからである。


 これが杉本隧道である。
 高さ4m、幅3.5mだが入口に鉄枠(?)があり、高さ2.5m、幅2mに制限されている。
 延長は310m、竣工は昭和26年3月31日(と銘板に書いてある)、なんだ唯の古くて狭いトンネルかと云われれば、その通りで言い返す言葉も無い(笑)。







 中は真っ暗、天井の蛍光灯では照度が足りないらしい。向うに小さく見えている明るい点が出口である。







 入口付近はレンガだが、すぐにコンクリート(モルタル?)が吹き付けられている、しかも表面は凸凹。
 上を通っている黒い紐状のものは、隧道内を照らしている蛍光灯の電源ラインである。
 あぁ、古くて狭いトンネルは面白いなぁ(笑)



 県道285号を北上、菅並から北海道トンネル(なぜ「北海道」だ?)という、恐らくダム工事用に造ったと思われる大きくて暗くて短いトンネルを抜けて、小原(おはら)へ向かう。


 途中で丹生ダム建設について、ダムダム君とニューちゃんが説明してくれているが、少々寂しげではある。










 

 県道は一本道なので、小原まで特に迷う事も無く到着。標識は新しいが、廃屋は残っていない。
 この後も標識は集落毎に現れたが、いずれも真新しく見えた。定期的に保守されているのかもしれない。








 家屋の基礎であったと思われる石垣は残っていた。さすがに石は30年で朽ち果てたりはしない。









 遺構らしい遺構はこれだけである。ただ、何に使っていたのかはよくわからない。水を溜めて、洗濯だろうか?それとも野菜や食器を洗ったのだろうか?





 小原からどれほども走らないうちに田戸へ到着。山深い所を通してはいるが一応県道、舗装はされているので走りやすい。
 写真の後に見えているガードレールはダム建設用に付けられた新しい道と思われる。また、リンク地図では春日神社との記載があるが、現地では特に何も見あたらなかった。良く探せば何かあったかも知れないが。また、ここでは民家の痕跡も見出せなかった。






 田戸から東へ入って行く林道を10分ほど走ると奥川並の集落跡に到着。ここにあったのはKDXの後に写っている石垣と、集落の中に気象観測用(?)の無人施設のみである。



 






 ここまでの林道は、県道と違ってダートである。ご覧の通りフラットであり、走りやすいが幅は狭いので対向車には注意が必要である。この日は山菜取り(渓流釣り?)の車が多く、意外と賑わっていた(笑)。



 田戸から奥川並へ向かう途中、集落標識のすぐ手前には「奥川並先祖代々の墓」があった。集落の墓を一つにまとめるとは珍しいが、ひょっとしたら記念碑的な意味合いもあるのかも知れない。
 








 
 右写真は墓の横にあった屋号板、30軒の屋号が見える。





 奥川並から更に奥は、程無くしてゲートが現れる。
 林道を楽しみたかったのであるが、これでは如何ともし難い。止む無くここでUターン。











 行きは気付かなかったのだが、林道沿いには2、3ヶ所坑道が口をあけていた。坑道上のプレートには坑口であること、意味不明の記号、そして延長が書いているだけであり、所有者(?)がわからない。帰宅してから少し調べてみたが、この辺りで鉱石の採掘が行われたような記録も見つからず、未だ謎のままである。地名が丹生なので、水銀を採掘していたのかとも思われるが、よくわからない。







 県道を更に北へ進むと鷲見の集落跡に到着。












 右は鷲見集落の真ん中を流れる川である。かつてはこの両側に民家が存在していた写真がweb上に残っている。川に渡っている鉄骨は橋の跡、こちらは当時のままのようだ。




 鷲見集落跡の入口には周囲よりも一段高くなった石垣と階段が残っていた。ここも他と同様に建物が残っていないので、何の跡かはわからない。









 県道を更に更に北へ進み、尾羽梨に到着。一本道である上に、何故かいちいち標識が出ているので、迷う事は全く無い。


 






 

 ちなみに走っている県道は概ね右写真のような状態。舗装はしているが、道幅は狭い。


 集落の道を挟んで反対側(上写真の右手前)には日吉神社の跡がある。階段上、石垣の上にある碑は離村の記念碑ではなく、日吉神社が昭和十四年に迎えた還暦の記念碑である。
 碑の撮影をしている最中、穴に落ちそうになった。とは云え、片足がはまる程度の穴だったのだが、足を落とした状態でひねると骨折してもおかしくは無い。このレポートを見て同地の訪問を考えている人、碑の近くは危険です、叢の下に落とし穴が潜んでいます(笑)。





 日吉神社跡から尾羽梨の集落跡を撮ったのが左写真である。もはや何も残っていず、標識が無ければそれとは気付かない。











 尾羽梨の集落跡からは、東へ向かう林道へ入ってみる。ご覧の通りのダート、初めのうちは車の轍もあったりしたのだが…。










 右は尾羽梨ダム、砂防ダムである。路面の状況に気を取られて下ばかり見ていると気付かずに通り過ぎてしまう。実際、ある事を知っていた私が気付いたのも復路だ(笑)。



 尾羽梨ダムを過ぎると急速に路面が悪化、泥道となる。もしここへ車で来る事があったとしても、悪い事は云わない、尾羽梨ダムの辺りで引き返した方が身のためである。
 ここ1週間ほど(以上?)晴天が続いていたにも関わらず泥道、ということは、この道は常時そうなのであろう。気を抜くと滑って真っ直ぐに走らない。


  
 


 

 しかも、右写真のように所々崩落しているのである。勿論KDXなので何とか越えて行った(写真ではKDXは崩土の手前)のであるが、崩土の上についている轍はバイクのものではない…?




 林道へ入り込んで30分。尾羽梨ダム以降は崩落を幾つか越え、泥道に呻吟しつつ進んだが、しかしこれ(左写真)はもはや道ではない。沼である、沼。KDXがまるで、悲しみの沼に沈むアルタクスのようだ(笑。ネバーエンディングストーリー参照)。


 






 泥沼の深さは軽くくるぶしの高さを越えている。20cm近いのではないか?
 時間も無いし、余りの惨状でもあるので、ここで撤収することにした。林道の走破は次回アタックまでお預けである。北緯35°38′55.2″、東経136°14′9.9″が今回の到達点。地図で見るとまだ道半ばである…。



 ほうほうのていで県道へ戻り、北へ進むと針川の集落跡である。KDXの後に写っている車は山菜採、渓流釣の車である。他と同様、集落に民家は存在しない。











 民家は残っていないが、唯一遺構らしかったのが右写真、タイル張りの恐らく浴槽(又は流し)と思われる。




 針川の集落は川を挟んで対岸にもあったようだ。かつて橋のあった場所に、簡易的な小さな橋がかかっている。
(徒歩で渡ってみました。KDXでは無理ですって)











 そして対岸には、何らかの建物があったと思しき平場。民家(?)があったのであろう。




 針川から上流へすぐのところにあった堰。半分崩壊しているところが、いかにも今日の雰囲気にマッチしている(と思って撮ったw)。









 
 県道を更に更に更に北へ進むと、最後の集落、半明である。半明はこの更に北にある、北国街道(R365)沿いの中河内集落の枝郷であるところが、他の集落とは異なっている。そしてこの半明と針川の間には元々道が無かったらしいのである。即ち、菅並側から来ると針川で行止まり、中河内側から来ると半明で行止まりだったようだ。
 今の道は、両者が廃村になった後、ダム建設の都合(?)で開通したものらしい。

 





 道から右写真にある階段を上がって行ったところが神社跡である。







 上ってみると、6体のお地蔵様。赤い頭巾と涎掛けは真新しいものであったので、誰かが定期的にお参りしているのかもしれない。






 そして、神社跡から見下ろした半明の集落跡。今日目にした集落の中では最も広く思える。良く見ると集落の中へ入ってく道が舗装されているが、当時もそうであったのかどうかは分からない。



 この後、県道は中河内の集落でR365北国街道と合流し、その道程を終えるのである。


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