奥土倉探索記
2009年4月12日
滋賀県木之本町にある土倉鉱山跡へは昨夏訪問したのだが、帰宅してから国土地理院の地図を眺めていて不思議なトンネルを発見したのは既報の通りである。今回はそのトンネルの正体を確認すべく、再び土倉を探索したので報告する。 |
滋賀県木之本町にある土倉鉱山跡(昭和40年に閉山)は昨夏訪問したのだが、帰宅してから国土地理院の地図を眺めていて不思議なトンネルを発見したのは既報の通りである。
が、念の為おさらいをしてみたい。
左地図が土倉鉱山周辺である。
地図の南(下)から川を遡って行くと、地図中央でY字に分岐(川の流れで考えると合流)している。
分岐から北東(右上)へ遡ると、川がトンネル(暗渠?)の中を通っているのが分かると思う。明らかに人工的なものであるが、ここは結構な山の中であり、分岐地点で既にこんな感じである(写真の左手がトンネル方向であるが、道が無いのが分かると思う)。
土倉鉱山について、もう一度よくネットで調べてみると、次の通り大体3つの地区に分かれていることが分かった。
@土倉谷入口、R303沿いに社宅等があった
AR303から入ってすぐのところに選鉱場があった
B上地図のトンネル(暗渠?)の位置にも選鉱場、社宅、分校(!)等があり、奥土倉と呼ばれていた
@については僅かながらも情報があり、今でも叢の中に建物の土台だけが残っているようである。
Aの選鉱場跡は、その古代遺跡の如き風格(?)が廃墟マニア等の間でメジャーな存在になっているらしく、情報も比較的多い。web検索で出てくる写真等のほとんどはこれであり、また、私が昨夏訪問したのもここである。
で、問題は今回の焦点であるB、奥土倉。
分校まであったにも関わらず、ここで書いたキーワード的な情報以上のものや現状の写真はweb上には無く(少なくとも私は探し出せなかった)、勿論トンネルに関する情報も皆無である。
となれば、湧き上がる好奇心を満足させるためには、自分で行って確かめるより他は無いのである。
土倉鉱山まではR303を通り、KDXで1時間余りの行程である。
R303は最後まで残された岐阜県側の川上村と滋賀県側の金居原地区のバイパス工事が昨秋終了しており、高規格の国道として全線開通した。が、おかげで土倉鉱山への入口(金居原地区にある)が分からなくなっており、迷ってしまったのは内緒である。
左写真は八草トンネル西側で東を向いている。右へ分岐していく細い道がR303の旧道、土倉鉱山への道である。標識も無い(当然である)ので、全く気付かない。
岐阜側(写真の奥)から来ると八草トンネルを抜けて最初の左への分岐、鋭角になっているところである。滋賀側から来る時は、ここではなく、八草トンネル手前にある左への鋭角の分岐を入っていくのが分かり易いかもしれない。
1年ぶりの選鉱場跡。草が生茂る前なので、昨年8月に訪問した時とは異なって、遺構がよりはっきりと姿を現している。
この風格(?)は、何かの古代遺跡と偽っても通るのではないだろうか?
選鉱場前を通り過ぎ、分岐である二股橋まで進む。この写真は橋の北側から南を見ている(冒頭のリンクの写真と同じ方向である)。
KDXの後に車が写っているが、この日は本当に車が多かった。山菜取りと思われるのだが。
右写真は奥土倉の方向を見ている。KDXの前方に道があったようなのだが、流されてしまっている。
仕方がないのでここからは徒歩で探索とする。
道が無くなっていたのは入口の50m程だけ。その奥は、軽自動車であれば入れる(勿論、藪も雪も無い季節に限るが)幅の道が付いている。
歩き出してすぐに石垣が現れた。何かの土台で、この上に建物があったのであろう。
この山奥に人が住んでいたことの証左である。
入口の道路崩壊さえ何とかすれば、後はこのように軽自動車が通れるくらいの道が付いている。もっとも、この先は藪になっていたりして、実際の所そう簡単ではないのだが。
ちなみに、道端に転がっているのは隕石である(笑)
隕石の後には、コンクリート造りの擁壁があった。高さは3〜5m程だろうか。当然、建物があったと思われるのだが、何も残っていない。
二股橋から歩くこと10分。
あった!
道が川を置き去りにして上り始めるところにトンネルが口を開けていた。
川底は路面から3〜4m下であり、両岸はほぼ垂直に切り立っている。それでも立木に掴まりながら何とか下に降りられないものかと路肩に寄った瞬間、足元の地面が崩れた。路肩に近いところは硬く湿った砂(?)である。危うく落ちかかる、とまではいかなかったが、冷や汗はかいた。
仕方がないのでトンネル上部の藪を掻き分け対岸に移り、立木に掴まりながら降りていって写した写真がこれである。
川を、コンクリートで覆って暗渠にしている。高さは1.8m前後だろうか?私が立って歩けるかどうか微妙な高さに見えた。
ちなみに、川は浅いが流れは速い
。
思い切って川に入り、トンネル(以下、暗渠と呼ぶことにする)を覗き込んだのがこの写真である。
写真では暗渠の中が明るくみえているが、これはそのように加工したためであり、実際は真っ暗で少々気味が悪い(クリックすると元画像が別ウィンドウで開く)。
暗渠出口を過ぎて歩いて行くと、右手斜面にまたもや遺構。
手前はコンクリート壁、奥には石垣。石垣は建物の土台であろうが、コンクリート壁は何だろうか。小さ目の選鉱場に見えないことも無いのだが。
更に行くと、何かがフェンスで囲まれていた。
覗き込むと、暗渠まで通じる竪穴が開いていた。
何に使ったのかちょっと想像できないが、暗渠の明り取り、という訳ではあるまい。井戸として使うのも考えづらい(水が必要なら用水を流した方が余程合理的である)ので、鉱山関係の廃水をここから流したのではあるまいか。
同様の竪穴はもう一つあり、そしてこの辺りは左写真のように少し開けている。
写真右奥にはやはり石垣の土台がある。下の写真がそれである。
石垣の上には、何か建物の基礎のようなものが残っていた。
右の写真は、同じ場所を斜面の上から見たところである。
ここから先は根拠の無い推論なのだが、この奥地に鉱山施設、宿舎その他を建設するために、山を崩して造成するのではなく、川を暗渠とすることにより埋め立て、平地を造ったのではあるまいか?
二股橋から30分、暗渠の入口にたどり着いた。写真の奥、暗くなっているところがそれである。手前には橋(?)のような遺構が見えている。
これが暗渠の入口側である。この位置で川の深さはくるぶし程。暗渠の中を通って戻ってやろうかとも考えた(懐中電灯も持っているし)が、結局やめておいた。やはりちょっと気味が悪い事と、中で何かあっても誰も助けに来ないからである。
これは橋らしき遺構。幅は1m強、20cm角のコンクリート材を3本、渡してある。
川は暗渠になっているので、わざわざここへ橋をかける意味がわからない。ひょっとしたら橋の遺構ではないのかもしれない。いずれにせよ、両端には何の遺構も残っていないので、真相は文字通り藪の中である。
暗渠の入口のすぐ上流で、砂防ダムが立ちはだかっていた。奥土倉の遺構がこの奥まで続いているのかどうかは定かではないが、ダムを越えるのも厄介だったので今回はここで区切りとし、引き返す事にした。
今にして思えば砂防ダムの銘板(工事年月日が入っているはず)を確認しておくのであったと後悔している。このダムが閉山後に造られたものであれば、更に奥にも何らかの遺構が期待されるのだが。これは再調査の必要有りだな… |
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