調布飛行場の遺跡 【蒼空の記録へ】
2009年9月6日
東京都調布飛行場。今では伊豆大島への小さなプロペラ機定期便が飛んでいる他は、時折軽飛行機が離着陸しているだけの長閑な飛行場だが、戦争中は陸軍調布飛行場。太平洋戦争末期には海軍の厚木航空隊とともに陸軍の帝都防空の要として、三式戦闘機
飛燕を装備した飛行第244戦隊が展開していたのである。今回はその遺跡を探索してきた。
東京での事務所はここ(どこだ?)。調布飛行場のすぐ近くである。とりあえずここを起点として調布飛行場の周囲を一周、遺跡を訪ねることにする。スタートは15:30。
フェンス越しに見えているのはノーマン・アイランダー、調布飛行場を拠点とする新中央航空が伊豆諸島への定期便として使用している機材である。乗員1名、乗客9名のこじんまりとした機体。東京へ出張しているうちに乗ってみようと思ってはいるが、果たせるかな?
調布飛行場のターミナルから少し南へ下ると、滑走路の反対側に妙な建物が見えてきた。
味の素スタジアム、というらしい。野球場かと思ったが、サッカー場のようだ。
飛行場のターミナルビル(こじんまりとしたものだが)から外周沿いに10分ほど南へ下ると、往時の調布飛行場門柱が道の両脇に残っている。
(写真は北を見ている)
左の門柱にはその痕跡をとどめるだけだが、右の門柱には「東京調布飛行場」と書かれた板が残っている。よくもまぁ残っていたものだと思うが、滑走路や建物からかなり離れた場所にあるので忘れられていたのだろう。元々はここから飛行場内だったのだろうが、今は一般道になっている。
次は滑走路から少し離れて、どんくり山へ上る。羽沢小学校の裏手になる。案内板にある通り、首都防空の高射砲陣地のあった場所だ。
右はどんぐり山から調布飛行場の方を望んだ風景。遠くに見えているのが件の味の素スタジアムである。手前の建物は羽沢小学校。こうして見ると飛行場一帯が一望できて、高射砲陣地としては適地であることがわかる。
上の看板にある保育園の中庭に残っている遺跡、写真中央の丸い台座がそれだ。web上では高射砲の台座と紹介しているものもあるが、大きさからするとあり得ない。せいぜい機銃の台座だろう。
台座の上に載っているのはプラネタリウムの映写機だそうで、これは遺跡と関係ない。
保育園の裏、老人ホームの駐車場奥に残っている当時のものらしき建物。何かの倉庫のようだが、武器庫か弾薬庫だろうか。
建物の手前、花壇になっている部分は、実は高射砲の台座である。右の写真がそれで、後ろから見たところである。台座の大きさからしてさほど大口径の高射砲があったとは思われないが、正確な情報が見つからないので何とも云えない。せいぜい50mm程度の口径の高射砲が据えられていたのではあるまいか。ちなみにこの辺りの有名な高射砲は、久我山の五式十五糎高射砲だ。
高射砲陣地跡から小一時間歩く白糸台の掩体壕
がある。雑草に覆われていて危うく通り過ぎるところだった。
調布飛行場は戦闘機の基地なので、掩体壕は大きくない。また、半分近くが土砂に埋まっているようだ。
右写真はすぐ脇を通る陸橋の上から見たところ。民家に囲まれた空き地となっていることがわかる。調布市としては戦争遺跡としていずれきちんと復元するつもりのようだ。
白糸台から滑走路の西側を北上、40分ほどかけて滑走路の北にある武蔵野の森公園へ。
これは公園に2基残る掩体壕のうち、大沢2号と呼ばれる1基。主として格納されていたのは冒頭に述べたように、陸軍飛行第244戦隊の三式戦闘機飛燕(下図)である。
大沢2号から2、3分の所にる大沢1号掩体壕。こちらには三式戦の絵(実大)が描かれている。
その傍らには当時を模したモニュメント(?)が置かれている。
肝心の三式戦は、まずまず満足のいく出来栄えかな。ちなみにスケールは1/10だそうだ。
ここまで来て、ようやくスタート地点に戻った(笑)。陸軍調布飛行場の遺跡を訪ねた、2時間半の徒歩の旅であった。