陸上自衛隊武器学校
2011年6月1日
 

 若い血潮の予科練の、七つボタンは桜に錨。今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦にゃ、でっかい希望の雲が湧く。

 帝国海軍時代(戦前だな)、茨城県土浦市には土浦海軍航空隊(*)があった。冒頭の「若鷲の歌」で歌われている通り、ここでは予科練(飛行予科練習生。この課程を終えると「飛練」(飛行練習生)へと進む)の教育がなされていたのである。
 しかし、敗戦とともに基地は米軍に接収され、その後は紆余曲折を経て現在は陸上自衛隊土浦駐屯地になっている。

(*:霞ヶ浦湖畔にあるのが土浦海軍航空隊、湖畔ではない土浦側にあるのが霞ヶ浦海軍航空隊)

 で、その土浦駐屯地には陸上自衛隊武器学校があり、旧軍時代からの火砲や戦闘車両が展示、一般公開されているのである。また、冒頭の通り、予科練が設置されていたことから、予科練記念館(雄翔館)も開設、一般公開されている。

 という訳でだ、出張のついで(と云っても東京から駐屯地まで2時間近くかかる)に行ってみたのである。

 左が土浦駐屯地の正門。奥の方に見えているのが霞ヶ浦の湖面である。右は入門時に渡されるバッチ。陸上自衛隊なのに桜に錨(海軍の徽章)が使われている。いつも思うのだが自衛隊の場合、門で簡単な手続きさえすれば基地内では多くの場合自由見学(放置プレイともいう)だ。善意の見学者としてはその方が敷居が低くて良いのだが、悪意のある者(破壊工作だな)の防ぎようは無いわな。その上、写真も撮り放題。



 さて、火砲館。屋外展示の見学は年中無休!なのだが火砲館は平日のみの開館である。なので、わざわざ平日に時間の取れる出張を待っていたのだ。










 せっかく武器学校に来たのだから、火砲の弾道のお勉強。左から高射砲(飛行機を撃つ)、加農砲(カノン砲、目標を直接狙って撃つ)、榴弾砲(りゅうだん砲、障害物越えで目標を撃つ。弾道は山なり)、迫撃砲(榴弾砲と同じ目的だがもっと小さい。歩兵の携帯用)。









 部屋の中には主として旧軍事代(それも日清日露の昔(*))の野砲、山砲、迫撃砲が並べてあるのだが、実はあまり詳しくない。かろうじて知っていた(という程でもないが)のが写真左の九四式三十七粍(ミリ)砲(対戦車砲)である。大東亜戦争では米軍の戦車に対して全く歯が立たなかった豆鉄砲だ。

*:大東亜戦争は攻めて行っての戦争であるし、負け戦でもあるので多くの砲は還ってこなかったのだろうと想像している。




さーてと。火砲館を出て、その隣の並びには本日のメインディッシュが鎮座ましましていた。

大日本帝国陸軍の精華、三式中戦車である。





 左が三式中戦車の主要諸元。
 三式とは、皇紀2603年(昭和18年)に制式採用されたことを表している。

 上の正面からの写真を見ると、車幅と砲塔の幅がほぼ同じであることがわかるが、これは搭載された三式七十五粍戦車砲が戦車搭載用のものではなく、野砲をそのまま用いたために小型化がなされていなかったことによる。また、妙にキャタピラの幅が狭い気がするのはその通りで、重量は18.8tonしかない。
 また、旧軍の戦車は、エンジンにディーゼルを用いたため(諸外国はガソリンエンジンが主流)、被弾時に炎上しにくい利点はあったものの、大きさ、重量、馬力ともに劣っていた。






 正面の装甲厚。なんともまぁ薄い! 50mm程度しかない。ガンダリウムなどという特殊鋼を使っている訳ではないので(笑)、この薄さがそのまま実力である。これでは敵戦車との正面切っての撃ち合いなど考慮するにも値しない。このクラスの口径の砲を持つ戦車なら、この2〜3倍は厚い。









 マズルのディテール。これに装薬の燃焼ガスをあて、砲身を前方へ引っ張ることにより砲身の駐退を制止する(従って砲身後部のスペースをコンパクトにできる)のだが、意外と凝った形状をしている。









 三式中戦車の腹下。戦車には床下に脱出用のハッチがあるという話を聞いたことがあるので覗いてみたが、それらしいものは見当たらなかった。もっとも、本車がどこまで忠実に復元されているのかは分からないが。








 昭和18年と言う時期は、諸外国の戦車はいずれも口径が75mm〜128mmの戦車砲を持ち、重量が50tonになんなんとしていた(それだけ装甲が厚い)ことを考えると、三式中戦車は出現当時でさえ米軍戦車に対抗できるだけの性能を持っていたとは思われない。とはいえ、国内に残る貴重な旧軍戦車ではあるので、わざわざ見に来た訳なのだが。なお、蛇足ながら、当時も今も戦車の設計技術を持つのは三菱重工だけである。(キャタピラを有する車両、という意味であれば小松製作所も該当するが)。




 三式中戦車の隣には八九式中戦車が展示されていたようなのだが、当日は空家で看板だけが残っていた。
 なおこの八九式中戦車、近年、可動状態にレストアされたようだ。










駐屯地内には屋外展示の車両もたくさんあったのだが、圧巻はこの99式155mm(!)自走榴弾砲(試作)。


この馬鹿でかい車体が大迫力。戦車じゃなくて自走砲だけどね。
(自走砲とは、自走できる砲、戦車みたいな撃ち合いはしない。普通、砲は車両等で牽引するのが基本)



上が道路沿い並べられた屋外展示戦闘車両等の数々。戦車やら装甲車やら戦車回収車やら、あれやらこれやら・・・
その中から以下、気を惹いたものだけをピックアップ。



陸自の歴代主力戦車、左から61式(1961年制式採用、以下同じ)、74式、90式。
現在の主力(になりつつある)は10式(2010年制式採用)戦車だが、これは未見である。


展示車両の(個人的な)白眉は下、大東亜戦争の初期から使われていた米陸軍のM4シャーマン。
これに我軍の主力、九七式中戦車は全く歯が立たなかったのである。

右の諸元を見ると、戦車砲の口径は三式中戦車と変わらないものの、重量は倍近く異なる。それだけ装甲が厚いということだろう。エンジンの馬力は三式のこれもまた倍近くを確保しているので、機動力も同等だろう。
我軍が昭和18年になっても実現できなかった性能を、米軍は戦争初期より保有していたのである。

 
 戦車の見学が一通り終わったので、今度は予科練記念館の方へ行ってみることにする。
 予科練記念館は駐屯地の敷地内にあるのだが柵で仕切られていて、駐屯地隣の予科練平和記念館が開館している時は駐屯地側からの出入りはできず、外側(平和記念館側)からの出入りとなる(平和記念館の休館日は外側の門が閉じられ、駐屯地側からの出入りとなる)。


 左写真の、雄翔館とあるのが予科練記念館、その手前の庭園が雄翔園である。















 雄翔園内にある豫科錬之碑。入隊したのは十代半ばの少年達だ。そして多い期では8割近くが戦死している。











 若鷲の歌の碑。
 作詞 西条八十、作曲 古関祐而。大したもんだ。










 雄翔園の全景。中央の碑には「雄飛」と彫られている。







 予科練記念館の前には山本五十六(連合艦隊司令長官、元帥海軍大将)の像。山本はここで副長をしていた。元々は砲術が専門だが、海軍航空の父と言われた人物である。













 予科練記念館。空母を模している、屋上が飛行甲板のつもり、と解説にあったが、何と言うことはないコンクリート平屋の四角い作りである。館内は撮影禁止、予科練で学んだ少年達の群像が展示されていた。




 予科練記念館を見学した後は、隣接する予科練平和記念館へ。間に「平和」という甘い言葉を挟むあざとさが憎いが、まぁ許してやる。所詮は地方都市のやることだ。

 展示内容は予科練記念館と同じ、少年達の群像である。但しこちらは、教育課程の内容まで含んだ展示がされているが。
(館内は撮影禁止なので写真は無い)






 この後、関東鉄道バスに乗って帰ったのだが、なんと床が木張り。未だにこんなバスが走っているとは、さすが土浦・・・

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