奥多摩日原


2010年1月24日
 

 思えばこれが、以降連綿と続く奥多摩との戦いの第一歩だった(大げさだな(笑))

 実は、知っていた。
 東京の西端、神奈川と接する奥多摩に蟠踞するそいつ。都内最狂の誉れも高い旧都道204号の名を。
 そして、都内とは思えない、奥多摩日原集落の風景を。

 それらをこの目で確かめるべく、奥多摩へ出かけたのである。


 青梅線の終点、奥多摩駅には7:30頃到着。ロケーションとしては山奥のとば口だが、登山客が非常に多い。駅前商店には寂れた感じがあるのだが。









 奥多摩駅から日原までは西東京バスが走っている。まずは日原の最奥、日原鍾乳洞へ行くつもりなのだが、休日はそこまで行くバスは無い(観光地へ行くバスが平日のみ、土日運休とはどういう訳だ?)。仕方がなのでその途中、東日原行きのバスに乗る。




 日原地方の地質は石灰。遠くに山肌を削り、石灰を切り出した跡が見える。











 駅から終点の東日原まで30分。
 ここまでの道は狭く、急カーブが続く。見通しがきかないせいだろうか、バスには運転手の他にもう1名乗車し、運転席からは見えないブラインドコーナーの先を見張っている。狭隘部で対向する時など、誘導をするのであろう。
 それにしてもここまで、細い日陰の道が続いた。岐阜なら間違いなく凍結している状態である。







 東日原のバス停から、まずはその更に奥、日原鍾乳洞を目指して歩く。途中、左手に見えてきたのが稲村岩。たぶん、石灰の岩だ。登ってみたいが、勿論無理(笑)。しかしあの頂上はどうなっているのだろう。
 突然、ロッククライミングでも習ってみようかと思いつくが、この歳じゃあね(苦笑)




 




 20分ほど歩いて鍾乳洞に到着。開門まであと10分。付近をうろついて時間をつぶす。
 鍾乳洞の中の写真は、無い。撮るほどのものでもなかった、というのが正直なところだ。










 鍾乳洞の見学をてきぱきと済ませた後、踵を返して日原の集落に戻る。
 日原には平地が無く、家々は全て斜面に存在している。
 ここで、日原の地図を確認して欲しい。ほぼ西から東へ流れる日原川が作り出した谷間の、集落は北側に存在している。当然、氷川(奥多摩駅のある辺り)から日原へ至る都道204号も日原川の北側を通っている。
 だかしかし。地図をもう少し拡大し、東へスクロールすると(これ)、日原簡易局から右下へ延び、日原川を南へ渡って東へ向かう道と、地図の右下(小菅集落)からやはり日原川の南側に沿って日原へ向かう道があるのが分かるだろう。但し後者の道は、地図上は途中で対岸の奥多摩工業の方へ向かって川を渡っているが。
 


 これらの道は、実は、日原川の南側で最近まではつながってい、そしてこちらが本道だったらしいのである。今日の目的の一つ目は、この道を何とかたどれないかということだが、果たして上手くいくか?


 都道から地図を見ながら適当に当たりをつけて谷を下っていく。途中、とても不安になったが(桟橋が腐りかけているのが何箇所か)、日原川を渡る小さな吊り橋に到着。事前情報ではこれもやはり腐りかけた吊り橋だったのだが、立派な鋼製のものになっている。銘板には「日原橋 平成20年3月竣工」とあるので、この時点で2年経っていない。








 橋を渡ってから下をのぞくと、ああ、何かが腐って落ちている。これが以前の木橋(の残骸)に違いない。新しく橋を架け直したということは、この道、使ってるんだな。





 頼りない、獣道に近いような状態の道を10分ほど下流に向かって歩くと、林業用モノレールを納めてある小屋に到着。左右には避けて歩けるほどのスペースが無いので、悪いなとは思ったが仕方なく中を歩く。









 小屋を抜けるとすぐ、獣道は何となく河原へ向かって下りていく。仕方なしに下りていったが、当然ながら道はそこで途切れていた。再び上へと登る道がないかとしばらくうろうろ探してみたが、無い。
 どうやら地図の通り、道(少なくとも、現在までも生きている道)は存在しないようだ。残念。









 対岸を見上げてみる。恐ろしいまでの地すべり、崩落である。そしてこの風景を、後のために憶えておいて欲しい。





 あきらめて引き返す途中、斜面を登っていく分岐があることに気づいた(写真は件の吊り橋からモノレール小屋の方向を見ている)。往路では、不安な足元を気にして下を向いていたため見逃したようだ。










 標識には「氷川←」とある。ひょっとしてここを上っていくと氷川(小菅集落)への道が通じているんだろうか!?



 甘かった・・・。どれほども上がって行かないうちに、道はなくなってごらんの通り。しかし、ならばあの標識は何?










 気を取り直して日原集落へ戻る(ということは、急斜面を上がっていくのだ。ううう…)。
 思いがけず(考えれば当たり前だが)廃校を発見。日原小学校、平成6年に廃校となったらしい。










 校庭の隅には当時からあったのだろう、奥多摩工業(この界隈で鉱業を営んでいる)で使っていたと思われるトロッコ電車を発見。





 

 





 すぐに銘板が気になる(笑。習性だな)。
 このトロッコは三菱電機製のようだ。実は三菱電機(重工じゃないよ)、余り知られてはいないが現在でも電気機関車を製造している。ちなみに関係ないが、ビーバエアコンは三菱重工、霧ケ峰は三菱電機である。お間違えの無いように(笑)。


 制御器にも三菱のマーク(→)。









 このトロッコが三菱電機製であることは間違いないのだが、なぜか車輪には日立のマークが。全体取りまとめと制御系統が三菱電機で、台車とモータが日立製なのかもしれない。あと、どこかに東芝の機器が入っていれば、我が国の重電メーカそろい踏みだな。







 小学校跡から次なる目標に向かう途中、振り返って日原集落を撮影する。誰かが「日原は東京のチベット」と言っていたが…
(日原には少なくとも室町時代から人が住んでいたらしいが)












 日原トンネルの西側坑口に到着。さて、ここからが本日の第二目的だ。トンネルの手前を右(南側)へ回り込む(右写真は振り返って撮っている)。










 トンネルの南側から谷底をのぞきこむ。息を呑むような深さだが、あれ? さっきのモノレール小屋じゃ〜ん!(クリックして拡大)。
あんな谷底を歩いてたのか。で、今から行こうとしているのはさっき見た崩落現場(13枚前の写真)な訳ね…。








 日原トンネルを擁する都道204号には、新道と旧道が存在する。先程の日原トンネルも新で、その南側に旧トンネルが存在するのだ。左写真は新トンネルから旧道へと入っていく道で、旧道そのものではない。旧道はフェンスの向こうにチラッと見えているアスファルトの部分だ。









 フェンスのところで振り返る。写真中央の橋が新道であり、右手に新日原トンネルがある。一方、フェンス側の足元と向こう側の端の左側にコンクリートの橋脚があるのがわかるだろうか?これが旧道である。










 これが旧道。アスファルトの舗装は大して痛みもせずにまだ残っている。が、だ。その向こうに見える斜面、あれは一体何なんだ…










 旧道の探索は突然に終わった。正面に見えているの旧日原トンネルだが、フェンスで厳重に封鎖されている。このトンネル、現在では奥多摩工業の私有地であり、通じてはいるらしいのだが、向こう側は採掘現場に出てしまうようなのである。

 







 旧トンネルの右側にあるガードレールを乗り越えると、道のようなものがあるのだが、それは凄まじいことになっている。

 実は、新日原トンネルの開通は昭和50年代、旧トンネルの開通は昭和40年代。それ以前、昭和30年代に使われていた道がこれなのだ(更にそれ以前は、本稿の最初で紹介した日原川南岸の獣道が主要道路であったのだ。つまり、日原には昭和30年代まで車道が通じていなかったのである)。
 この道は車道として昭和30年代に開通したものの、程なく崩落し、一時は日原の住民が孤立することになったのだが、復旧工事として掘られたのが旧の日原トンネル。しかしそれも10年程で路面が崩落、新トンネルが掘られたらしい。



 そしてこの、「都内最狂」と呼ばれる都道204号の旧々道の踏破、それが本日の第二目的である。











 てか、ダメだよ、これ。道、無いもん。ガレ場の先の斜面は、トロッコ小屋から見上げたザレ場の斜面で、とてもじゃないが足を踏み入れてみようとする気さえおこらなかった。だって、下はこんな(↓)だし。いくら何でもこれは。チキンでいいです…。












 すごすごと尻尾を巻いて引き返す。振り返ると、本日二度目の敗退に山が笑っていた。って、あんな上から下までずっと崩落していたのか…。









 日原トンネルを徒歩で東側へ抜け、本日の第三目的、廃村倉沢へ向かう。写真にあるアスファルトの道は都道204号だが、倉沢へは側壁を登っていく遊歩道的な道を行く。これが倉沢へ行く唯一の道であり、そして最近まで人が住んでいたのである(現在位置)。









 倉沢へ向かう道。ここら辺りはまだ道幅もあり手すりもしっかりしている。









 だんだん道なんだか何なんだか分からなくなってきた。それでも杭にチェーンを張って転落防止を図っているところが、さすが東京都。予算規模が岐阜とは違う。








 尾根の西側と通っていた道は、神社に突き当たったところで二股に分かれる。西へ行くと天目山への登山道(たぶん)、倉沢へは東(右)へ行く。所々、路盤が落ちてたりするのだが、東京都の意地で杭とチェーンは残っている。写真中央につったっているのは木ではない、電柱である。この先に民家がある(あった)証拠だが、やるなぁ、東京電力。
 くどいようだが、倉沢へ行く道はこの1本だけ、そしてつい最近まで人が住んでいたのである。





 20分ほど歩いたところで、ほら、眼下の林の間に民家が見えてきた。数年前までお爺さんが一人で住まわれていた家だ。今は空家のようだが、さりとて個人宅なのでこれ以上は立ち入らない。下写真は道から写した二階部分である。











 上の家の裏手の斜面には、石垣が残っている。かつてはここに奥多摩工業の社宅があり、そして数年前まではその木造家屋が残っていたのである。今はご覧の通り解体されてしまって跡形も無いが。試しに「倉沢」でググると、まだ家屋が残っていた頃の写真はいくらでも出てくる。

 なぜにこんな所へ社宅を、と思うが、鉱山の現場には近いのである。で、ついでに床屋や診療所など生活に必要な店舗ももそろえてしまえば山から下りる必要も無い。また、下りたところで所詮は日原である。何も無い。








 倉沢から下りた後、都道204号を徒歩で下っていく。この区間、バスは自由乗降区間であり、手を上げれば止まってくれるのだが、いかんせんカーブが多く見通しが利かない。気づいたら真後ろにいて、手を上げる間もなく通り過ぎてしまう。

 結局、40〜50分歩いて白妙橋のバス停に到着。本日の目的の一つ目、日原川南岸の道を今度は小菅集落側からたどってみることにする。どこかで行けなくなることは、分かってはいるのだが、それをこの目で確かめたい。
(左写真は日原川を渡る奥多摩工業の鉄橋の上に停車しているトロッコ。索道なので、このようになってしまうのだ)



 日原川は、写真の吊り橋で渡る。











 吊り橋を渡って下流側を向くと、おお!こりゃまた何とも、隧道というより洞門である。しかも中は素掘り。いつからここにあるのだろう。しかし、日原(奥多摩)はおいしいなぁ、岐阜を越えてるぞ。












 「ここは危険です。気をつけて通って下さい」
 通行量はともかく、現役の生活道路のようだ…


 






 小菅の集落に入って最初に見えるのがこの家。建増しを続けて、えらい大きさになっている。階数は3?4?、それとも5?? 

 ちなみに、既に暗くなりかかっているように見えるが、まだ14時である。谷間なので日の光が届かない。








 着いた。ここが小菅集落側の起点であり、昭和30年頃まで使われていた、日原へ行く道だ。時刻は14:30。ここから先、どこまで入り込めるかは分からないが、片道1時間は使えない。フラッシュライトを持参しているとはいえ、この奥で日没を迎えたら(たぶん)命取りだ。









 入った直後はまだ荒れていない。道幅も軽自動車なら通行できる程度は確保されており、徒歩である限りは何の支障も無い。と、油断してたら隕石が落ちていた(↓)。やはり日原の山は基本的に崩れやすいのだろう。












 たまにこうやって駒止めが残っていたりする。ということはある程度、車は無理としても荷馬車かその類は通ったのかもしれない。少なくとも途中までは。







 あ…
 崩れてやがる…

 でも何とか…











 うひゃ〜
 意外と土砂は締まっていたので逝ってみたのだが、恐ろしい。(股間がスースーする感覚、分かる?)

 上写真の丸太の位置で下を眺めた写真である。落ちれば奈落の底で、絶対に助からない。








 所々崩れていたりはするのだが、それらは全て斜面側からの崩土であり、路盤自体が落ちている訳ではない。道自体はごらんのように要所要所で石垣を作って堅牢にしてある。日原住民の唯一のライフラインであるから、都(当時は「府」かも知れない)としてもそれなりに普請したのだろう。













 ふと見上げると、何か廃墟がある。おそらく奥多摩工業の索道関連の施設だろう。少し気にはなったが、時間が無いので確認は諦める。










 突然、広場に出た。どうやらここまで来たらしい。所要時間は30分。

















 オブジェ(笑)。鉱石を運搬するためのものだろうが、それ以上は分からない。

















 地図で見えている橋はこんな感じの吊り橋だ。分かりにくいが、床板は全て落ちている、というより侵入者を防ぐために落としたのだろう。
















 何気に川上側を見てみる。リンクで使っているマピオンの地図だと何も無いが、国土地理院2万5千分の1では、橋のすぐ上流に索道と思しき記号がある。恐らくそれだろうが、見事に崩れている。










 広場の片隅には、たぶん擁壁の上にあったのだろう、祠が落ちて壊れていた。

 さて、時間も余り無いので先を急ぐ。









 だが。
 5分と進まないうちにこれだ。さっきと違って斜面の土は締まっていない。足を踏み入れるとそのまま滑落しそうだ。








 下を覗き込む。滑落したら這い上がれない、というよりも即死かもしれない。とてもじゃないが進む勇気は無い。それにここを越えたとしても、この先が行き止まりなら(可能性極大)、戻ってこなければならない。そしてそれは、ロシアンルーレットを2回引くようなものだ。・・・撤収(





 再び都道へ戻り、少しだけ歩いたところで個人経営(?)の大増鍾乳洞を発見。気持ちを惹かれた(どうして鍾乳洞が好きなんだろうね?)が、時間が無かったのでパス。

 その後、1時間余り歩いて(またしてもバスを見逃した)奥多摩駅のある氷川地区へ到着。これは下っていく坂の途中から奥多摩駅裏側にある奥多摩工業のプラントを写したものだが、手前にある枯れ草の生えた橋は何だ! (次回の探索場所は決まったな…)




乞次回!
(たぶん)


余話2010へ